谷中七福神 天王寺(てんのうじ) 毘沙門天
今年の正月に谷中七福神めぐりを。
家族はTDLへ私は御朱印あつめってかんじでね。
個人的な記録なんで適当にスルーしてくださいね。
山号は護国山(ごこくざん)
正式名称は護国山尊重院天王寺 (ごこくざん そんじゅういん てんのうじ)
天台宗のおてらです。
日蓮が鎌倉と安房を往復する際に関小次郎長耀の屋敷に
宿泊した事に由来する。関小次郎長耀が日蓮に帰依して
草庵を結んだ。日蓮の弟子・日源が法華曼荼羅を
勧請して開山したのがはじまりだとか。
1641年(寛永18年)徳川家光・英勝院・春日局の
外護を受け、29690坪の土地を拝領し、将軍家の祈祷所と
なったそうですがそれまでの由緒みたいなのは
詳しくはわからないそうです。
元禄11年(1698)、法華信者以外からは布施を受けず
また他宗派の僧には布施を施さないという不受不施派に属していたため
江戸幕府より邪宗として改宗を命ぜられ、これに抗した住職日遼は
八丈島へ遠島になりました。そして、聖人像はじめ日蓮宗関係の品々も
それぞれ近隣の瑞輪寺等の同宗寺院に移管され
当山は名実ともに廃絶の危機に瀕したんだとか。
しかし、東叡山輪王寺の住職である公弁法親王が
由緒ある当山が廃寺となるのを惜しみ、天台宗寺院として
存続することを幕府に説いて認められました。
願主は輪王寺宮公弁法親王、大檀那は5代将軍徳川綱吉。
そして、台宗第1世に千駄木大保福寺の慶運大僧正(のちの長野善光寺中興)
を迎え、また本尊も、当山が寛永寺の北方に位置するところから
やはり延暦寺の北方にある鞍馬寺が毘沙門天を奉安して
国家安穏・仏法護持を祈願しているのにならって、比叡山飯室谷円乗院より
伝教大師親刻とされる毘沙門天立像を移して新本尊としました。
ちなみに本尊は明治になって現在の阿弥陀如来坐像にかわったんだとか。
1700年(元禄13年)徳川幕府公認の富突(富くじ)が興行され
目黒不動、湯島天神と共に「江戸の三富」として大いに賑わった
そうです。
昭和32年まで五重塔があったそうです。
放火によって惜しくも炎上したんだとか。
34枚目ゲットだぜぇ!
ご訪問ありがとうございました。
家族はTDLへ私は御朱印あつめってかんじでね。
個人的な記録なんで適当にスルーしてくださいね。
山号は護国山(ごこくざん)
正式名称は護国山尊重院天王寺 (ごこくざん そんじゅういん てんのうじ)
天台宗のおてらです。
日蓮が鎌倉と安房を往復する際に関小次郎長耀の屋敷に
宿泊した事に由来する。関小次郎長耀が日蓮に帰依して
草庵を結んだ。日蓮の弟子・日源が法華曼荼羅を
勧請して開山したのがはじまりだとか。
1641年(寛永18年)徳川家光・英勝院・春日局の
外護を受け、29690坪の土地を拝領し、将軍家の祈祷所と
なったそうですがそれまでの由緒みたいなのは
詳しくはわからないそうです。
元禄11年(1698)、法華信者以外からは布施を受けず
また他宗派の僧には布施を施さないという不受不施派に属していたため
江戸幕府より邪宗として改宗を命ぜられ、これに抗した住職日遼は
八丈島へ遠島になりました。そして、聖人像はじめ日蓮宗関係の品々も
それぞれ近隣の瑞輪寺等の同宗寺院に移管され
当山は名実ともに廃絶の危機に瀕したんだとか。
しかし、東叡山輪王寺の住職である公弁法親王が
由緒ある当山が廃寺となるのを惜しみ、天台宗寺院として
存続することを幕府に説いて認められました。
願主は輪王寺宮公弁法親王、大檀那は5代将軍徳川綱吉。
そして、台宗第1世に千駄木大保福寺の慶運大僧正(のちの長野善光寺中興)
を迎え、また本尊も、当山が寛永寺の北方に位置するところから
やはり延暦寺の北方にある鞍馬寺が毘沙門天を奉安して
国家安穏・仏法護持を祈願しているのにならって、比叡山飯室谷円乗院より
伝教大師親刻とされる毘沙門天立像を移して新本尊としました。
ちなみに本尊は明治になって現在の阿弥陀如来坐像にかわったんだとか。
1700年(元禄13年)徳川幕府公認の富突(富くじ)が興行され
目黒不動、湯島天神と共に「江戸の三富」として大いに賑わった
そうです。
昭和32年まで五重塔があったそうです。
放火によって惜しくも炎上したんだとか。
34枚目ゲットだぜぇ!
ご訪問ありがとうございました。
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20
青雲寺(せいうんじ)谷中七福神の恵比寿神
青雲寺(せいうんじ)谷中七福神の恵比寿神ってことで
ぞろぞろと歩いてる人がけっこういたので
ついていったらつきました。
この時期は皆さん同じようなことしてるんですね。
臨済宗妙心寺派寺院です。
山号は浄居山(じょうござん)
青雲寺の創建はくわしくはわかりません。元は埼玉・入間郡にあり
智光禅師の開創で浄居寺(じょうごじ)と号していました。
宝暦年間(1751~64年)、下総佐倉藩主・堀田正亮(ほった・まさすけ)が
日暮里に移転、再興しました。
その際、寺号を正亮の法号・青雲院にちなんで青雲寺と改められたそうです。
恵比寿様です。
滝沢馬琴の筆塚。『南総里見八犬伝』の作者で知られる滝沢馬琴は
その旺盛な執筆活動から、多くの使い古した筆を残しました。
その禿筆(とくひつ。穂先が擦り切れた筆)を
供養するための塚が筆塚です。
文化6年(1809)に築かれたそうで、この碑には
建立の由来、馬琴の生い立ちと業績が記されているそうです。
33枚目ゲットだぜぇ!
住所は荒川区西日暮里3-6-4
ぞろぞろと歩いてる人がけっこういたので
ついていったらつきました。
この時期は皆さん同じようなことしてるんですね。
臨済宗妙心寺派寺院です。
山号は浄居山(じょうござん)
青雲寺の創建はくわしくはわかりません。元は埼玉・入間郡にあり
智光禅師の開創で浄居寺(じょうごじ)と号していました。
宝暦年間(1751~64年)、下総佐倉藩主・堀田正亮(ほった・まさすけ)が
日暮里に移転、再興しました。
その際、寺号を正亮の法号・青雲院にちなんで青雲寺と改められたそうです。
恵比寿様です。
滝沢馬琴の筆塚。『南総里見八犬伝』の作者で知られる滝沢馬琴は
その旺盛な執筆活動から、多くの使い古した筆を残しました。
その禿筆(とくひつ。穂先が擦り切れた筆)を
供養するための塚が筆塚です。
文化6年(1809)に築かれたそうで、この碑には
建立の由来、馬琴の生い立ちと業績が記されているそうです。
33枚目ゲットだぜぇ!
住所は荒川区西日暮里3-6-4
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11
谷中七福神 修性院 しゅうしょういん 布袋尊
ぞろぞろ歩いてる人を見つけてついて行ったら
たどりつけました。
谷中七福神のひとつ、日蓮宗寺院の修性院です。
運啓山と号します。
天正元年(1573)豊島郡田中村(現練馬区南田中)に創建
寛文3年(1663)当地に移転したと伝えられます。
人混みが苦手なんでこんなメジャーな御朱印あつめを
するんじゃなかったって少し後悔。
7つのうちの2つめだぜぇってつぶやきながら
やっぱり集めようなんて思ってみたり。
結局、集めたんですがね。
修性院の布袋は、「日ぐらしの布袋」ともよばれる。そうです。
江戸時代の中期ごろから、このあたり一帯は俗に「ひぐらしの里」
とよばれ、江戸近郊の行楽地として賑わったことかららしいです。
バチあたり御朱印ゲッターはまともにお参りしてないかも。
32枚目ゲットだぜえ!
住所は荒川区西日暮里3-7-12
たどりつけました。
谷中七福神のひとつ、日蓮宗寺院の修性院です。
運啓山と号します。
天正元年(1573)豊島郡田中村(現練馬区南田中)に創建
寛文3年(1663)当地に移転したと伝えられます。
人混みが苦手なんでこんなメジャーな御朱印あつめを
するんじゃなかったって少し後悔。
7つのうちの2つめだぜぇってつぶやきながら
やっぱり集めようなんて思ってみたり。
結局、集めたんですがね。
修性院の布袋は、「日ぐらしの布袋」ともよばれる。そうです。
江戸時代の中期ごろから、このあたり一帯は俗に「ひぐらしの里」
とよばれ、江戸近郊の行楽地として賑わったことかららしいです。
バチあたり御朱印ゲッターはまともにお参りしてないかも。
32枚目ゲットだぜえ!
住所は荒川区西日暮里3-7-12
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